記憶が自分が思考する自分の脳内にしかないから都合よく解釈してリピート再生できるわけであって、電脳みたい記憶が記録になったとして、便利なそれをそのまま受け入れられるのかな、記憶だからこそ自分の都合の良い解釈ができて、過去を過去として認められる、みたいなことだったりしないのかな。すべてが完全無欠、欠け漏れ抜けのない状態の純度100%のいわゆる事実は、自分史として許容できるのか?
肩代わり
あの人間性で働くのが憂鬱、私が肩代わりをせねば!。思わせる人間性か、自分自身の焦りか。次の降格は他人事を笑う間もなく自分かも。
キックオフが自分事になったのはとても嬉しかった、と同時に視線は合わなかったのは普段の怠惰と甘えのせい。
じぶんはもっとやれるはず、やります、改善案、そういう姿勢でいるから見捨てないでねアピールなだけかも。今日の研修だって外ズラは良かったと思う、だからといって?
どうやら関係性が近くなり過ぎた
他人に優しく、自分に厳しく、今もそうだと思ってるんだけど、どうやら関係性が近くなり過ぎた人間は、自分として扱ってしまうみたい。
体調不良は甘え、自己責任、職場の人間には思っていても腹ただしくはならないし切り捨てられるけど、家で弱音吐かれるのは苛苛する。
胸騒ぎ
どこかで見た、多様性を認める受け入れる寛容であることと、無関心ないしは思考停止思考放棄であることの指摘、「何もしていないがために」罰せられた、CINRAの監督インタビューに通じるものがあった。
バレリーナ
やっぱりジョンウィックシリーズはゲームっぽいんだよね、画角もそうだしアクションかっこいいよりイタイし、クリティカルヒットするしゾンビいっぱいみたいな敵役の配置と絵ヅラで。火炎放射器!バイオ!
そのうち映画館へ行っても、広告入り、プラスオンで広告無しとかになりますか?
TVのコマーシャルは敵ではなかったのにね?
最適解
己の性格からして、何もしない時間を作る、家で。はきっと無理。何かしなきゃと日々切迫してるからこの有様なわけ。
となると、半強制的に何もしない時間を作るが最適解。というか意図せず旅行や移動や通勤や無駄な遠回りやバス移動でやっていた事が、フルリモートをいいことを抜け落ちてるためなので。
目の見えない白鳥さんとアートを見にいく
世の中は自分のためにないという漠然とした感覚、その他大勢のマジョリティーに向けているという感覚。利き手、盲目、障害っていかん?
本を読むまでの腰は重々だけど、私が欲してるのって刺激で、そのものを味わう、も勿論あるけど、普段目にしないキーワードとか、人の考えとか、そういう類いのものに触れて、それをきっかけに思考を巡らせる、こと自体が性質として好きなのだと思。
というか、その刺激が多かった、否、無意識的に知的好奇心とか言って取りに行っていたしまたそのエネルギーも満ち溢れていたし時間も気力も無謀さもあったから、こういう人間性になって、良き巡り合わせで良き人が周りにいてくれるんだと思。
考えることをやめたら私は私じゃなくなる、すぐにってわけではなかったけど、日々つまんない人間に成り下がってる感、払拭するためのエネルギーは筋トレするしかないって、時間も若さもないけど、貪欲な生き物は同じ屋根の下にいる。
偶然の巡り合わせか、ボルタンスキーが濃密に語られてて嬉。